築地市場が豊洲に移転する直前、なんとなく訪れた場所。振り返ってみれば、電車でふらっと行ける距離でありながらきちんと訪れたことがなく、しかしメディアを通して知ったつもりになっていたからか、初めて訪れた気がしない。
通りには働く人たちの威勢の良い声が行き交う。歩きながら、時折立ち止まっては店先に並べられた商品と値札を隅々まで見るのが楽しい。手書きの値札の字が大きかったり小さかったり、走り書きだったり、赤字だったり黒字だったり。値札から顔を上げて店主の顔を見ると、目が合って、思わずニッコリ。
使い古した自転車やターレットトラック(通称ターレと呼ばれる3輪自動車)が通りのあちこちに無造作に置かれ、その間をすり抜けるように観光客が食べ歩きを楽しんでいた。スティック状の卵焼きを売るお店にはひっきりなしに客が集まっていた。湯気の立つ柔らかそうな卵焼きを頬張っているのを目にすると、こちらもむくむくと食欲が沸いてきて、ついつい店の前の行列に並んでしまった。
今では更地となっている場内市場にも足を運んでみた。
すでにお昼過ぎということもあり、場外市場の賑やかさとは反対に人気がない。静けさに包まれた空間を歩いた。
明朝体の看板、商売道具の自転車やターレ、軒からぶら下がった電燈、アナログな道具に古びた建物。今自分はどの時代にいるのだろうかと迷子になってしまいそうな瞬間が何度もあった。
商売人の元気な掛け声につられて店の前に立ち止まり、目と目を合わせて値切り交渉をし、手と手を差し出して小銭を受け渡す所作も、気恥ずかしいような、けれど温もりのあるやり取りが今では恋しい。掛け声は極力抑えてソーシャルディスタンスを心がけ、なんとかペイで互いに触れないようにすることが暗黙のルールとなり早二年、かつての築地の賑わいは昔話のようだ。
いや、きっと場外市場の温もりは健在だろう。しばらくコロナの世界にいるうちに、自分の心の内にバリアができて、「今は昔」と思われてしまうのかもしれない。